クチコミに潜む毒

新年一発目は久しぶりの「シャカ斬り」から参ります。
 
最近、ネットを見ていると「ステマ」という言葉が飛び交っています。見慣れないこの言葉、「ステルスマーケティング」の略語で、消費者に広告と分からないように宣伝をするというやり方だとか。

例えば、有名人のブログなどでとある商品を使って、それが良かったよ!という記事があったとします。これは一見すると広告ではなく、有名人の日常の一コマを描いたようなものに感じられます。しかし、同じ商品が他の有名人のブログでも取り上げられ、その文章が同じようなものだったとしたら?そこにはある「意図」が感じられます。そう、それが一つの宣伝なのです。

魔法の杖は諸刃の剣

東日本大震災の発生から1ヶ月がすでに過ぎました。
ニュースを見ておりますと、仮設住宅の建設が進んでいたり、物資がたくさん届けられた様子が映し出され、復興の兆しが、画面越しに伝わってきます。
けれど、現地でボランティア活動された方々からは、復興などとはまだ言える段階などではない状況だということを聞きます。
被災の範囲が広かったこと、頻発する大きな余震や、福島第一原発の問題などもあり、まだまだ被災地の方々は、不自由で不安な生活を余儀なくされていることと思います。
私も少しでも、できることを努めていきたいなと感じる日々です。

つもりつもって

みなさんメリシャカ。
いよいよ告知がなされました、「メリシャカLIVE2010」!今年も豪華なゲストミュージシャンを迎えて、西本願寺は聞法会館にて開催されます!ライブはもちろんですが、このイベントのキモは読経と法話。このミスマッチの妙を、是非堪能しにいらしてください。チケットは今月19日から予約開始です!!

さて、宣伝はこのくらいにしておきまして、今回は「つもり」のお話。

つぶやきは災いのもと!?

みなさんメリシャカ。 毎日ジメジメ蒸し暑いですね。仕方ないこととは言え、早く梅雨が明けて欲しいものです。
さて今回は言葉についてのお話。 昨年からtwitterというサービスが盛り上がりを見せていて、私も利用を開始してから1年が経ちました。皆さんの中にも、twitterを毎日活用されている方も、話題だから最近始めてみたという方も、始めたはいいけど、なんとなく放置してしまっている方もおいでるかもしれません。 私は日々、なんでもないことをブツブツ呟いたりするのに使ったり、あるいはいろんな人のつぶやきを見て楽しんでいるのですが、人のつぶやきをただ見ているというのもなかなか楽しいものです。 時には、いろんな議論がアツく交わされたり、貴重な講演の実況中継やまとめがなされていたり、情報を得る上でありがたいこともあったり、仏教や社会問題を巡る議論には、いろいろな考え方に私も刺激を受けています。

さてそんな便利なtwitterですが、弊害というか、自分にとって悪い影響を与える面もあるなと、1年使う中で感じるようになりました。

個性

皆さんメリシャカ。ケンユウです。先月に続いて今月も世の徒然を撫で斬らせていただきます。

最近、と言う言葉をつけるまでもないですが、「個性」というものが重視されている現代。しかしその個性重視、ということがどこか歪なものになっていると感じることが無いでしょうか。
個性的、と言うことは、つまり人とは違うことととらえられ、人と違うことが個性的で素晴らしい、そう考えられる風潮があるように思います。そのため、多くの人が人と違うことを目指すことによって、いろんなことが多様化して参ります。かつては流行と言えば、一つの事柄をみんながみんな追随する、というものでしたが、現代の流行と言うものを見ておりましても、いろいろなジャンルと言いますか、同時にいくつもの流行が存在するように思います。そんな風に、個性が大事にされ、個性的と言うことがもてはやされることによって、文化が多様化していくと言うのは、素晴らしいことであるように思います。
ところが、その全く逆のベクトルも働いているように感じることもあります。個性的であることがもてはやされているため、多くの人がより個性的でありたいと感じます。しかし「少数になる」と言うことが怖い、と言うまた別の意識がはたらくためか、多様化・分節化したものの中身を見ていくと、どうもそこに繰り広げられているのは、画一化されたスタイルであったりするように感じられます。新しい流行に乗った、実に個性的なスタイルであるのに、なぜかみんな同じようになってしまっている。個性的でありたいはずなのに、一人は嫌だ、仲間が欲しい、そういった心境からそういった事が起こるのかもしれません。しかし、似た仲間、同類が増えてくれば、今度はより細部において自分はあの人とはここが違う、というようなことを主張したくもなる。これは日本人独特、なのかもしれませんが、実に複雑な心情であります。面白いものですね。

さておき、その「個性」ということでありますが、どうも重視されているのはオリジナリティと言うか「人と違う」と言う部分であるように感じます。「人と私はここが違う。だから私は素晴らしい。その素晴らしさを認めてほしい」そういう意味合いで個性と言う言葉が使われていることが多いように思います。しかしよくよく考えてみますと、自分と同じ人間など、一人たりともいません。顔かたちも当然違いますし、経験してきたこと、考え方、好き嫌い、どれをとっても人と全く同じ、などと言うことはあり得ないでしょう。クローン技術で遺伝子的に自分と全く同じ人間を作り上げることができたとしても、生まれてから育つ環境が違えば、姿かたちも変わってくるでしょうし、クローンだからと言って、体験してきたことや記憶まで全く同じと言うことはないでしょう。人は最初っから、一人一人個性的なんです。
ところが、「人と違う」と言う部分にのみスポットが当たりがちであるために、人と同じ様であると言うことが忌避されたり、凡庸であると非難されたりする、そういう風潮が強いのではないでしょうか。教育の分野でも、それぞれの個性を伸ばす、というような事が言われたりしますが、どこか人と違うものを育てなければとか、人と違っていなければならないとか、そういう強迫観念のようなものがどこかあるように思いますし、社会においても、どこにでもいそうと言う人よりも、人とは違うものを持った人が良しとされるようなことが多いように思います。もちろん、人ができないことができたり、人より優れたところがあるのは長所と成り得るでしょうし、それが認められるの当然のことでありますが、「人と違う」と言う点ばかりが重視されると言うことに対しては、些か歪みのようなものを、私は感じざるを得ません。

個性を大切にすると言うことは、私はその人自身が大切にされると言うことであると思います。先ほども書きましたが、最初から人はそれぞれ違ったものを持っていますし、それぞれが個性的であります。にもかかわらず、個性と言うことが「人と違う」と言う部分にばかりスポットが当たるために、人と人とを比べ、「違い」にばかり注目し、その人自身が大切にされなくなってしまっている、そんな風に思うのです。

そしてもう一つ。個性を大切にすると言うことは、他の人を認めていくと言うことでもあると思います。それは、自分とは大きく違った趣向や考え方を持った人と出会った時、それが受け入れられずに避けたり、時には批判したりしがちでありますが、人と自分とは違っていて当然なのですから、その違いを互いに認め合って行けると言うこともまた、個性を大切にすると言うことであると思います。

人はそれぞれ違うもの。ですから無理に人と違っていなければならないと言うこともないでしょうし、人と違う部分があろうがなかろうが、本当はそんなことを気にする必要はないのかもしれません。それが、本当の意味で個性が大切にされる社会ということでしょうし、人と違わなければならない、という一種の束縛から意識を離してみることで、少し心が軽くなるのではないかなと思います。

赤い花は赤いまま、白い花は白いまま輝かせてくれる、それも仏教の教えの一つでありますから、ね。
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