平野啓一郎 私とは何か「個人」から「分人」へ を読む

読書の秋ですね。「シャカレビ」として投稿。
私とは何か「個人」から「分人」へ

嫌いな自分を肯定するには? 自分らしさはどう生まれるのか? 他者との距離をいかに取るか? 恋愛・職場・家族……人間関係に悩むすべての人へ。小説と格闘する中で生まれた、目からウロコの人間観!

と内容説明にあるが、著者の提唱される「分人」という考え方に、「生きるのが楽になった」という感想が多く寄せられるらしい。

「分人」とは、「個人」に対する著者の造語だ。日本語の「個人」とは、英語のindividual(一個人)の翻訳で、一般に広まったのは明治になってからと言われる。individualとは、divide(分ける)という動詞に由来するdividualに、否定の接頭語inがついた単語で、直訳すれば「不可分」つまり「もうこれ以上分けられない」という意味であるが、「個人」という日本語からは「分けられない」という意味を感じ取りにくい。

著者は「個人は、分けられない」という囚われこそ、現代の僕たちが抱える問題を生むと言われる。

「たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。(中略)私という人間は、対人関係ごとのいくつかの分人によって構成されている。そして、その人らしさ(個性)というものは、その複数の分人の構成比率によって決定される。」
つまり、出あった人によって、その人と対する自分(分人)というものが生まれ、分人の集合体こそが自分だ。
一人の人間の中に複数の分人が存在していて相手と共に作り上げるものだ。両親との分人、恋人との分人、恋人との分人、親友との分人、職場での分人などなど、自分という人間は、これらの分人の集合体なのだそうだ。

「自分探し」がもてはやされた時があったが、「本当の自分」というものがどこかにあるわけではなく、その瞬間その瞬間の「分人」の集合体が自分で、固定された何かがある訳ではない。
たとえば、今はそうでもないが、以前、僕自身実生活とネットでの顔が違うと言われたことがあった。現実世界で言えない自分の気持ちをネット内で吐露することが多かった。
連れ合いなどは、大分過去に運営していた非モテ系ブログを見つけてその痛い文章に、「結婚前、私はもしかして相手を間違えたかと真剣に考えた」と言っていたが、僕自身最近読み返して、それはその通りと思ったが、それも青過ぎた自分なのである。

仏教では、「諸法無我」が説かれる。全てのものは状況によって刻一刻移り変わり、何か「我」という実体がある訳ではない、そこに確固たる自分があると信じる事により、苦しみが生まれていく、という仏教の根本の考え方を、図らずも筆者が自らの文学との格闘と、経験とから説明して下さっているように思えた。

最後に、この本で特に心に残ったのは、この「分人主義」によると、愛とは、「その人といるときの自分の分人が好き」という状態のことであり、他者を経由した自己肯定の状態であるというところだ。
「愛とは、相手の存在が、あなた自身を愛させていくれることだ。そして同時に、あなたの存在によって、相手が自らを愛せるようになることだ。(中略)
今つきあっている相手が、本当に好きなのかどうか、わからなくなった時には、逆にこう考えてみるべきである。その人と一緒に居る時の自分が好きかどうか?」

お互いがお互いに支え合っている、大変優しい「愛」の定義だと思った。

と、ここまで書いて連れ合いに「一緒にいる時の自分が好きかどうか」と聞いてみる。
「え・・・。」(固まった。)そして「チスイは・・・?」(逃げた。)
そう言われると、「あ・・・。」(固まる。)

[訂正]大変優しい厳しい言葉だった。
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