too fast to live

皆さんメリシャカ。ケンユウです。

9月に入りめっきり涼しくなりましたね。そして今週末、9月12日はお寺座です。私も一口法話のご縁をいただいて、楽しみでありますが、早くも緊張しております。さてさてどうなることやら…

さて、最近ちょっと思っていることをば少し。
近頃、「ファストファッション」なる言葉を耳にすることがありました。はてなんのこっちゃと思っておりますと、ハンバーガーに代表される「ファストフード」に見られる「ファスト」がファッションにくっついてできた造語で、最先端の流行を取り入れつつ安く提供する、外国系の衣料販売店が主流として展開しているファッションの形態、のようです。
ははー、なるほど、と思ったのですが、そういうファッションに関してだけではなく、最近いろんな物事の変化のスピードが、どんどん速くなってきているように感じます。
例えば、テレビに出ている芸人さんやら、去年は流行ったとされる流行語、あるいは音楽などなど、流行と言うのは流れて行くと書くように次々と移り変わってゆくものでありますが、それにしても、一年を待たず、半年、3か月ペースで物事の流行り廃りが変わっていくのは、あまりに変化の速さが激しすぎるように感じざるを得ません。

しかしなぜこうも変化のスピードが速いのか、と言うことを考えてみますと、「流行」ということが「経済」あるいは「消費」ということと大きく関わっているから、なんでしょうね。
今の私たちの社会を支える経済、というのは、消費によって成り立っています。消費ありきで物が生産され、もし生産されたものが売れなければ、大きな損害となってしまうわけでありますから、作ったものはあの手この手で売らなければなりません。そこで、流行と言うものと結び付けられて、流行っていますよ、だから買いましょう、というような風潮になっていくわけです。つまり流行と言うものを利用して、消費をどんどんと刺激しているのです。
流行、と言うと、自然発生的に生まれるものと思いがちですが、そういう事情があるわけですから、決して自然に生まれているものばかりではないでしょう。例えば、毎年流行色、というのが取り沙汰されますが、これはその年に自然発生的に流行った色ではなく、業界が今年はこの色を流行色にしましょう、という決定の下、毎年決められている、と言うようなことも聞いたことがあります。そして流行色に限らず、いろんな流行りと言うものが、消費者の側からの発信ではなく、企業の戦略として作り上げられているように思います。
そしてその流行の流布に使われる媒体がメディア、ですね。雑誌はもちろん、テレビなどでも大きく取り上げられることで、それが流行であると、私たちは錯覚してしまいます。そう思うと、メディアの持つ力と言うか、情報をある意味操作できるという力は恐ろしいな、と思ってしまいます。ですから、メディアが流す情報が全て正しいと信じるのではなく、情報を正しく選択する知恵と言うのが、必要なスキルとなってくるのでしょう。

と、ここから少し仏教らしいお話をさせていただきますが、このような流行と言うものを利用した、消費の刺激、というものは、今の経済を支えるために必要な行為であるのでしょうが、同時に私たちの欲望を強く刺激するものであります。
つまり手を変え品を変え、いろんな手立てでもって私たちの欲望を刺激することによって、消費行動へと向かわせ、企業は利益を得ているのです。
もちろん、そういう活動は正当なものであるでしょうが、一つ気をつけなければならないのは、欲望を刺激するということは、私たちに苦を生み出させている、ということでもあります。
新しいものが欲しい!となる刺激を与えることによって、私たちの心には必ず葛藤が生まれます。「今使っているものもあるけど…」とか、「予算がね…」とか、「これ持ってないと話題についていけなくなるかな」などなど、いろんな葛藤そして苦悩が生じ、さらに手に入らない場合は、不満足と怒りの心に悩まされるでしょう。
つまり、今の経済と言うのは、私たちの苦しみを代償にして成り立っていると言っても、過言ではないんです。

とは言え、社会や経済と言うものは、私たちが生きていくうえで必要なものであります。ですから、安い物や流行りの物を、作られた情報に流されて買ったりするなと言うわけでも、今の経済のあり方を全否定しているわけでもありません。私たちが生きていくうえで、いろんな物が必要になってきますし、逆に倹約倹約!我慢我慢!となってしまうのも、心に苦しみをため込むことに繋がりますからね。
しかし、強烈に欲望を刺激し、消費を促そうとする情報は、私たちの心に苦しみを生みださせる、いわば毒饅頭のようなものでありますから、目まぐるしく移り変わる、作りだされた流行と言う激流に流されるのではなく、また逆に必要以上に自分に我慢を強いるのでもなく、自分にとって本当に必要なものを吟味していくと言うことが、より、苦に悩まされない生き方であろうかな、と思います。

変化のペースがどんどんと加速していく現代でありますが、速すぎる流れや強烈に心を刺激する情報に身を任せるのではなく、そこから一歩離れて、慌てずゆっくりゆったりと、スローな生活を心がけるのが、仏教的な生き方であると言えるのでしょうね。

右と左と

最近、ニュースを見たりネットをチェックしていると、右寄りとか、左寄りとか、そういうことを意識させられる事が多いように思います。中国や韓国との関係性、今問題となっている北朝鮮のミサイル問題などでそれが顕著に表れていると思うのですが、面白いのは、マスコミの報道姿勢と、ネット上での反応が全く違う、ということ。
このへんのことは、みなさんそれぞれで見てもらえばわかるのですが、マスコミは左寄りで、ネットでの意見は右寄りになりがち、というのが、個人的なイメージです。
しかし、この両者を客観的に見ていきますと、どちらも、偏った意見、なんですよね。考え方によってはどちらの考え方も、間違っているわけではないんですが、一つの物事に対して全く見方や意見が違ってきていて、そこまで極端に考えなくても、と感じることが、多々あります。

それはさておくと致しまして、仏教は、右左、どちらの立場に立つのでしょうか。右左と言う両極端な立場にあえて分けるとするならば、仏教は、姿勢としては左寄りの考え方だと感じます。なぜなら、仏教はいのちの平等性を説く教えでもありますし、差別や戦争に反対の立場に立ちますから、そういう意味では、平等や非戦・平和を掲げる、左寄りの考え方に近いと言えるでしょう。
ですから逆に言えば右寄りな考え方とは対照的な立場にあるわけです。右寄りな考え方は、自分の立場を高めるために、他を見下し虐げていく、という方向に向かいがちで、差別を容認し、争いすらも辞さない、という道を選択することもあります。極端に右傾化すれば、自分たちの民族は、他の民族よりも優れている、と言うような、根拠の無い優劣をつけ、他の民族を迫害するというようなことが、歴史上の話だけではなく、現代においても見られます。

しかし、仏教は、右寄りな思想に反対の立場に立つからと言って、完全に左に偏った教えでもないように、私は思います。
もちろん、先ほど述べたように、差別や戦争と言うことに関しては、反対の立場に立ちますから、左寄りな姿勢であるということは否定しませんが、極端な左寄りの立場、すべてが均等に平等でなければならないというような考え方には、少々同意しかねる部分があるのです。
こんなことを言うと、いやいや、阿弥陀仏の四十八願には、「悉皆金色(しっかいこんじき)の願」、阿弥陀仏の浄土に生まれる者は、皆等しく清らかで尊い存在となるということが誓われているではないか、仏教は、すべてのいのちが等しく平等である、と言うことを説く教えではないのか、と、思われる方もおられるかもしれません。
それは、ごもっともなこと。しかし、これは仏さまの国でのお話。いのちは皆等しく尊いものであると言えども、それぞれいろんな違いがあるのが、私たちの生きている世界です。もし仮に、極端な左寄りな考え方に基づいて、すべての人が、均質的に平等な状態になるとしましょう。まずは、物質的に平等になりますから、財産も食べ物も、みな分け隔てなく、同じだけもらえるようになります。
しかしどうでしょうか。物質的に同じになったとしても、人それぞれに、いろんな違いがあるもの。運動が得意な人もいれば、勉強が得意な人もいますし、運動も勉強も苦手だけど、絵を描くことや、音楽が得意だという人もいるでしょう。要領のいい人がいれば、マイペースにゆっくり物事を行う人もいる。外見も人それぞれ違いますし、話すのが得意な人もいれば、物静かな人もいます。そうなると、卑俗な例えですが、物質的に同じだけ持つことができても、モテるモテない、というような格差が出てきたりすることもあるわけです。それでは当然、不平等ですし、また均質的に平等になるということは、素晴らしいことのように思えますが、人それぞれ持つものを、大事にしない、ということにも繋がってくるでしょう。
みんなが一緒であるということは、誰でも一緒、と言うことと、そう違いはありません。顔の違い、性格の違い、経験・体験の違い、得手・不得手の違い、人それぞれが持つ違いがあるのに、それが無いもののように無視されていく。果たしてそれが、理想的な社会のあり方と言えるでしょうか。

そのような画一的な平等は、仏教の平等とは、異なるように思います。仏教は、いのちは等しく尊いものであると考えますが、だからこそ、人それぞれ持つものを大切にする教えではないかなと、私は思います。人それぞれ、いろんな違いがあって、同じ人は一人としていない。だからこそ、いのちは尊く、光り輝くのではないでしょうか。
そういう風に考えますから、平等と言うことについて、違いを均(なら)し、みんな同じようにしていって平等だ、とするのではなく、みんな生まれも生活環境もそれぞれ違う。違うのが当たり前なのだから、その違いを、お互いに認め合い、お互い尊いいのちだと敬い合っていけることこそが、真の平等である、と考えるのだと思います。

と、ずいぶん話がそれてしまった気もしますが、こういう風に見ていくと、仏教の立場は、一般的な左寄りの立場とも、一線を画すように思います。極端に左寄りになるあまり、過激な意見や行動を示すのも、逆に反発を生むだけですし、主義主張が違うだけで、「自分たちの考えが全て!絶対的に正しい!」となってしまえば、極端に右に傾くことと、そう変わりはないようにも、思えますからね。
そのような両極端な立場ではなく、右でも左でもなく、その両方を超えた、別の視点から物事を考えていくことが大切であり、偏った両極端な立場に立つことの危うさ、極端によらない道を歩むことを勧めてくれるのが、仏教の教えの一つであるのです。

戦争と平和

 皆さんは、好きな人に告白する、という経験はおありでしょうか?私は何度かあるんですが、その中で、後から考えると、相手の女性に上手く告白せざるを得ないシチュエーションを作られて、私が告白した、と言うよりも、告白させられたな、と思うことがあります。もしかすると、男性の中には同じような経験をした方がおられるかも、しれません。
 で、その告白させられる、ということ。相手に上手く乗せられた、と言う感じもありますが、向こうから告白された、とは違うわけです。水を向けられたとはいえ、告白したのはこちら側。だから、告白されたのか、告白したのかで言えば、告白させられたは、告白した、になるわけです。

 いきなりいったい何の話や、と思われた方もおられるかもしれませんが、日本は侵略国家ではない、と言うことを某空幕長が論文で発表し、話題にもなりましたよね。私も論文読んでみましたが、日本は中国に侵略したのではなくて、中国のコミンテルンやアメリカの行動によって、そうせざるを得ない状況におかれた、と言うような主張がなされていました。けど、日本の固有の領土に侵略を受けたから反撃したのではなくて、中国の領土内に、日本が軍を進めたんですよね。理由はどうあれ、その時点で、侵略、となってしまう気がいたします。第一次世界大戦もそうですけど、オーストリアが、皇太子をセルビア人に殺された、と言う理由でセルビアに侵攻しています。これが侵略行為とみなされ、世界大戦の火ぶたが切られることになったわけですから、盧溝橋事件が、日本が仕掛けたのか、中国共産党の謀略なのかは定かではないですけど、結果、日本が軍を進めた。それはやはり、侵略とみなされても、仕方ないでしょう。軍を進めた側が侵略じゃないと主張したって、進めてこられた側にすれば、侵略に受け取られるでしょうし。
 それと、告白させられた、というのが、一緒じゃないかなと思って、冒頭の文章があるんですが、告白させられたのは、告白されたのではなくて告白したことになるわけですから、戦争に関しても、進軍せねばならない状況にされたから進軍した、というのは、侵攻を受けているのではなくて、侵攻したことになるんじゃないかな、と。そうなれば、その行為は当然、侵略、となるわけです。
 ただそうすると、侵略を行ったのは、日本だけじゃありません。某空幕長も論文の中で書いてますけど、欧米列強の植民地化の行為は明らかに侵略です。にもかかわらず、日本だけが侵略国家と呼ばれるのは、確かにおかしい。それは納得できます。ただ、他の国が侵略しているのに侵略国家とされず、日本だけが侵略国家の汚名を受けているのはおかしいから、日本も侵略国家ではないと主張するのは、どうかな、と思います。これは逆に言えば、日本の侵略を認めていることにもなりますしね。そうじゃなくて、日本が侵略国家ならば、欧米だって侵略国家である、と主張するのが、まっとうだと思います。某空幕長の主張していることは、ある強盗が捕まったとして、その強盗が、「ほかにも強盗してるやつがいるだろ?そいつらが強盗として捕まっていないなら、俺が罪に問われる筋合いはない」と言っているようなものじゃないでしょうか。そう思うと、やはり某空幕長の論には、無理がある気がします。
 もちろん言いたいことはわかります。あの戦争を起こしたことを当時の政府、日本の過ちだと、卑屈に考えすぎるのは、疑問の残るところです。そもそも、どの戦争であれ、いろんな判断の過ちが積み重なって行われるものであるし、とりわけあの戦争だけが過ちとは言えないと思います。また、歴史を否定したり、隠したり、自分たちの都合のいいように解釈していくというのは、過去を顧みるどころか、過ちを繰り返しかねない、愚かな行いです。起きた事実をそのまま受け止め、過ちを犯したならば反省し、謝罪すべきところは謝罪し、そこから次に向けてどうすべきか考えることが、歴史を振り返ることの意義なんですから。戦争というものは様々な原因が重なって起こるもの。けれど、日本が軍を動かしたことは間違いありません。それを侵略と呼ばれるのは当然のことです。いろんな理屈をつけても、それは揺るがないことでしょうし、その真実から目を背けていては、日本のこれからのあり方についても、軍事についても、平和についても、キチンと考えてはいけないでしょう。
 と、長々と書きましたが、こんな人の揚げ足とりみたいなこといつまでも書いてても仕方ないですよね。物事にはいろんな見方がありますし。というか、全然仏教っぽくないんで、ちょっとだけ仏教のお話もしたいと思います。

食品、奥から取りますか?

食品、奥から取りますか?

ちまたで話題の消費期限。
気にする人が増えたと思いますが、賞味・消費期限の長いものから買いますか?

先日、こんな話を聞きました。

そこそこ考えて買い物をするひとは、賞味・消費期限の長いものから買う。
でも、本当に志のある人は、あえて期限の短いものを買って、期限までに使い切る努力をする。

なぜかというと。
日本の食品の廃棄量は、とてつもなく多い。
もったいない。もったいない。
だから。

「この食品は、今私が買わなければ、廃棄されるかもしれない。でも、今私が買えば無駄なごみにならない、もったいなくない」と考えるのだ、と。

スーパーの見切り品コーナーには、今日明日の消費期限となったものがどさっと置いてあって、少し痛みかけてる野菜や果物が並んでます。お魚お肉もしかり。家計節約のためにこれらを買うことはよくありますが、それだけじゃない意味があるんですね。

販売側の工夫もあったらいいな。
お肉お魚お野菜のいわゆる“見切り品”。
それぞれをワゴンにどさっと乗せたり、隅においやったりしないで、【今晩の献立はこの中からどうぞ!】ってひとまとめにして、ecoシール=3割引みたいにしてくれたら、無駄なく買える気がします。

出来ないことないと思うけどね。その分の人件費や経費、廃棄に比べたらエコじゃない?

確かに、健康被害があるかもしれないから、それは注意しないといけない。
でも、自分だけは、自分の家だけは安心安全なものを購入すればいい、ってだけなら、それはエゴというものかもしれません。
買い物かごをもう一度、見てみよう。
エゴの塊ばかり、になってないかな・・・

エゴから、エコへ。
今夜の献立のための買い物だけ、って所から始められる。
視野が広がる、背筋が伸びる、そういう買い物が出来そうです。

人を殺すのは誰?

「うーん、やっぱりあの人怪しいなあ、あの人が犯人じゃない?」

「こんな酷い事する奴は、やっぱり死刑にするしかないよね…」

「人殺しておいて、未成年だからって、許されていいんかなあ?」

「あんな酷い事して平気でいられるなんて、うーん、ちょっと理解できない…」

テレビを見ていると、毎日多くの殺人事件の報道がなされています。
上に書いた言葉は、それを見た時の、私の素直なリアクションです。
犯人の見つからない事件があれば、それをサスペンス映画でも見るような感覚で、誰が犯人かを考えたり、
犯人が捕まったら捕まったらで、その人を勝手に断罪し、死刑を望む。
それが仮に未成年であっても、やはり人を殺した事に変わりはないと、同じように、極刑を求める。
自分に理解できない事があれば、他人をたやすく異常者扱いをしてしまう…
それが、偽り無い自分の姿です。


もちろん、人を殺す、ということは、許されるべき行為ではありません。
人一人を殺すという行為は、
一人の命を奪うだけではなく、多くの人を悲しみ・怒り・憎しみという負の感情の渦へと巻き込み、
そして自分の命をも傷つける行為です。
いや、全ての命は繋がって存在すると考えるならば、人一人を殺すことは、全ての命を傷つける行為といってもいいかもしれません。
そう言う行為は、すべきではないし、もしそう言う行為をしてしまった人は、
社会のルールに沿って、それ相応の罰を受けなければならないでしょうし、
遺族からの怒りや、社会的な制裁も受けなければならないでしょう。

しかしどうでしょうか。
私は、その犯罪に直接関係した被害者側でも加害者側の人間でもなく、
法を元に人を裁き、或いは人を護る立場にもいない、単なる第三者です。
その無関係な第三者が、まるでドラマや映画を見るような感覚で、面白おかしく、偏った情報だけで人を犯罪者扱いし、その人の事を何も知らずに批判し、そして勝手に命を終わらせようとする。
犯罪に関係ない第三者だからとは言え、他人事のようにそのような犯罪に向き合うだけでよいのでしょうか。
おいおい、お前自身がそうなのに、自分の事を棚に上げてこういうことを言うのは筋違いでは?と思われる方もおられるでしょう。
それはごもっともなことで、私も自分で書きながら、全く説得力に欠けるし、馬鹿げているな、と思います。
しかし、そのように面白おかしく、他人事のように犯罪に向き合い、人をたやすく非難する私、あるいは、自分のことは棚に挙げて、偉そうな事語る私も、実はいつ加害者の立場になってもおかしくない身であるのです。

『歎異抄』という書物の中で親鸞聖人は、「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」ということをおっしゃっておられます。これは、縁、いろんな条件さえ整えば、我々人間は、どんな行いをしでかしてもおかしくは無い身である、ということをおっしゃっているのです。
また同じ『歎異抄』の中で、我々が人を殺していないのは、ただその条件が整っていないだけで、決して清い心を持っているから殺しをしていないわけではないし、殺すまいと思っていても、人を殺めてしまうこともある、ということもおっしゃっておられます。
つまり、私たちは、人殺しなどしない、人を殺す気持ちなどわからない、と自分自身では思っていますが、今まで人を殺めた事がないのは、心が清いからではなくて、単にその条件が整っていないだけであって、社会的に極限まで追い詰められたり、自分の命の危機に直面したり、味わった事のない絶望に打ちひしがれたり、押さえようの無い怒りや憎しみに心を支配されたりした時には、人を殺してしまうこともあるかもしれません。
また、全く意図せずとも、事故等によって、人を殺めてしまうこともあるでしょう。
殺人事件のニュースを見て、第三者的に、無責任な思いを持ってしまう私ですが、
実は決して第三者などではなく、いつ加害者の側に回るとも限らない存在なのです。

こんな事を言うと、罪を犯すことに対して、開き直っていると思われたり、加害者の行いを肯定しているように思われたりするかもしれませんが、そうではありません。
他の命を傷つける行為は、先ほども書きましたが、決して許されることではないのですが、
人の事を責めるのではなく、まず自分の姿を正しく見つめ、決して自分は常に正しい存在であるわけではない、ということを考えなければならないと言うことです。

とは言え、事件の報道を見て、それを批判するな、と言いたいわけではありません。人それぞれにいろいろ思うこともあるでしょうし、第三者的な、客観的な物の見方が重要になることもあります。
しかし、最近は凶悪犯罪に関して、過度で偏った視点からの報道も見受けられます。そのような報道に流されて、単に他人事として面白半分で事件を見るのではなく、自らもいつそうなるかわからない身であると、自分の姿を正しく見つめなおす事も、大切なのだと思います。
自分を正しく見つめていくことは、他人に対して思いやりの心を持つことにも、繋がることでもありますし、そこから少し、変わっていく事もあるかもしれません。

ま、私も人の事を言うだけでなく、自分がまずそうしていかねばならないのですけど、ね。
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